50歳のおばちゃんの叔父が戦争が終わってから特攻した「宇垣特別攻撃隊彗星隊」の一人だった話…。
こんにちはおばちゃんです^^
平成が終わり令和となりました。おばちゃんは平成最後の日に「ギックリ背中」を起こしてしまい、痛みにのたうちまわりながら、令和を迎えたのですが…。
今回の話は少し身バレしそうな話になっちゃうので気をつけて書いて行きたいと思います。
まあ今回の話は令和を迎えるにあたって、友人のJJIが「平成」って開国以降初めて戦争のなかった時代だったんだよ!と言って来たのが始まりでした。
この話を聞いてね、ああ…本当に素晴らしい時代だったなぁとあとから深く感じました。平和な時代になって本当に良かった。
まあでですね、こんな事があって、色々考えていたのですが、それが令和元年にまとまって形を伴って返って来たので、ここに記しておこうと思います。
おばちゃんには叔父がいました。この事があとになってわかったのには理由がありました。
おばちゃんは中学2年の時にお婆ちゃん(母方)とおばちゃん家族(父+母+弟)で伊豆に旅行に行きました。伊豆に旅行に行った時に祖母が海に向かってお酒を流し、花束を投げていました。あとからわかるのですが、この日終戦記念日だったのです…
海に向かって手をあわせる小さな祖母を背後から見つめていた私はなんとなく「岸壁の母」という曲を思い出しました。
でもって、その事をしばらくしてから、母親から聞いた訳です。
母親が言うには
・おじさんの供養をしていた。
という訳です。
(※高校生位)
その時はその「おじさん」が誰なのかは全然わかりませんでした。
その後に、「靖国神社」へ”偶然”寄った時に母親がまた
・おじさんは兵隊だった
・おじさんは特攻で戦士した
・靖国神社(ここ)のどこかに名前がある筈
という話を聞きました。
(※同高校生位)
そのあとに永遠のゼロという映画を見る機会に恵まれて、そういえば!と思い起こし母親にその事を尋ねました。
(※映画が発表になってから結構してから拝見しました2013年に公開されていますので多分2015年とかその頃位に見たのかもしれません。)
すると
・おじさんは祖母の本当の息子だったのだが、訳あって祖母の母の子供という事になって田舎で暮らしていた。
・母が子供の頃に、おじさんは兵隊になったといって、出兵するのでとサーベルを腰にさして祖母に挨拶に来た。
・おじさんは玉砕放送後に特攻して死んだ。
・おじさんの命日は8/15だ。
という事でした。その後におじさんの名前もわかりました。
この事を元におじさんについて、当時ググったりしたのですが、あまり情報は無く、玉砕放送後に特攻した人たちがいたかどうかとか、何もわかりませんでした。なんで玉砕放送が流れていたのに、特攻した人たちがいたのかも疑問でしかありませんでした。
おばちゃんの世代の人間にしてみるとですね…
戦争終わった→やったー!開放→早く家に帰ろう!
だという短絡思考につながってしまっていたから良くわからなかったのですね…。
その後、おばちゃんは若い頃に「船」に乗って仕事をしていた事もあり、ある自衛隊関連の小説を書かれる高名な作家の方と知り合いました。(というかこうゆう縁を何故か引き当てる自分もすごいと思うのですが…^^;)
この方はすごい方でお父様も超有名な作家さんだったのですが、その方になんとなく話の中でこの事を伝えると、
・玉砕放送後に出撃した特攻隊が確かにいた。
・自分は江田島にある海軍士官学校の館長に以前取材をした事があるので聞いてみるが、確か最後の特攻隊は沖縄から出たと聞いた事があると…
でもって、叔父の名前も伝えて聞いていただいたのですが、結果は今いちよくわからないままだった…でした。
それでね今日、令和を迎えるにあたって、平成は日本が開国して後、はじめて戦争のなかった時代だったんだなぁ…と改めて考えていて、久しぶりにエゴサしてみたのですよ!上の条件を色々当てはめて行ってですね…。
するとですね、出てきました!
最後の特攻隊!
叔父の名前が入っていました…。
↓の方のブログが良くまとめられていました…。
8/15の「終戦記念日」に祖母が伊豆の海岸から花束とお酒を投げていた理由がこれで良くわかりました…。叔父は終戦記念日に「玉砕放送」を聞いてから特攻した訳です…。しかも当時叔父は…20代…(おばちゃんは50歳です…)
でもってね。おばちゃんの長年の懸念も行く平成の時代に置いて行けるんだなぁという感慨もあったのですがね…。
なんかね、やっぱり身内に特攻でしかも玉砕放送後に特攻してなくなった人が居るという事実がね、なんとも言えない気持ちになったんですよ…。
悲しみと悔しさのようなお腹の中がなんかわーって熱くなるような…なんとも自分で分化しきれずに気持ちを言葉で表せないような気持ちになりました。
昔読んだ「ミハエル・クンデラ」という方の「存在の耐えられない軽さ」という小説がありました。おばちゃんはほとんど必要性が無いと本を読めない人(←)なのですが、この小説は何故か読んでしまいました。
お話の舞台となった時代はチェコ(チェコスロバキア:当時)の開放の時代の話なのですが、この小説の主人公の奥さんとなる人が東側になったチェコから亡命して、西側諸国に来るのですが、西側での生活に慣れなくて、戻ってしまう下りがありました。
なんかね小説読んでいてね、なんで!?ってなったんですよ。命かけて西側に亡命してこれからという所で戻ってしまった奥さん…。
でもね、多分このような「作用」「反作用」というのは当時もあったのだろうと思います。
叔父は志願兵でしたので、随分と早い時期から、兵士としてこの戦争に当事者として参加していたのだろうと思います。
そうゆうものをすべて考えても、こんな悲しい事は無いなぁ…と感じました。
おばちゃんの祖母は北国の生まれでした。貧しく乏しい田舎での口減らしもあり、東京に働きに出されました。(母親によると「飯炊き女だった」のだそうです…^^;)で働いていた時に、祖父に見初められて大きな家の後妻に入った人ですが、その時に祖母には子供がいたのです。
その子供がこの叔父でした。
誰も叔父の父親を知りません…。
(しかももっと複雑な事情がありますが、ここには明記しないでおきます…)
祖母は後妻として祖父の家に入る時に、祖父にはすでに2人の子供がおり、自分の子供を連れて行く事が出来なかったのかと思います。いや…その当時すでに働く自分の手で子供を連れて仕事する事は無理だと思い、すでに田舎に置いていたのかもしれません。
本当の母親に軍人になると腰にサーベルをさし、北国の片田舎から、軍服を来て敬礼しにきた姿を見せに来た叔父の事を考えると、そしてそれを表の玄関から迎える事が出来ずに勝手口から迎えた祖母の事を思うと、何とも言えない気持ちになります。
(祖母はこの当時10人のお手伝いと2名の書生を囲い店では20人弱の雇い人を有するいわゆる大店の奥さんになっていました。)
今の時代で考えればなんて事!と思われる事ですが、おばちゃんの同じ年の友達のお母さんもまた、本当の親ではなく、その祖母の子供とされ育ったという話を聞きました。
おばちゃんは今年51歳になるわけですが、今50歳の人たちの子供時代には、こうした理不尽な現実は結構沢山あったのかもしれません。
色々、子供の頃から、連続しない情報として、叔父の話を聞かされていましたが、実際それらがつながって一つの事柄として、みれるようになっても、何とも言えない気持ちはなくなるものでは無いのだなぁと思いました。
令和の時代を迎えて、何だか少しセンチな気持ちになったおばちゃんでした…。